2011年3月11日午後2時46分46秒 東京に居たある個人の体験より。
※震災当時の津波に関するニュース描写があります
※当時のデータは確認しましたが、正確な時刻等に関しては個人の感じたものであり誤差がある可能性があります。ご了承ください。
2011年3月11日、午後2時46分18秒。
あなたはあの瞬間どこにいて、なにをしていましたか?
中の人は「中の人」になるまえの、ただの「私」で、まだ「我が子」はこの世に誕生していませんでした。脳金化するまえゆえ今よりも10kgほど余分に肉をつけた「夫」と結婚してからあまり時間が経っておらず、その頃は下高井戸の駅にほど近い、5階建てアパートの最上階に住んでいました。
その日の東京はとてもいい天気で、よく晴れ渡っていたのをいまでも覚えています。金曜日だったことも鮮明におぼえています。なぜかというと、私はその日夫婦ふたりぶんだけの洗濯物を取り入れながら、「天気もいいし気分もいいから、これから新宿でも行って高島屋で週末の買い物でもしてこようかなー」…と、考えていたからです。
それが震災で世界が一変する前の、最後の記憶でした。
午後2時46分。
ベランダにいた私は、ぐらり、と強い揺れを感じた。「地震だな」とすぐわかるほどの、あまりにもはっきりとした揺れだった。住み始めてからそれまでにも何度かの軽微な地震は経験していて、そのたびに一応は耐震構造だった鉄筋コンクリートの5階は、最上階ゆえに震度2の地震を震度3、震度3の地震を震度4くらいに感じさせるほど、大げさに揺れては日中ひとりで家にいることが多かった私を驚かせたものだった。
けれど「その日」の地震がそれまでと全く違ったことは、揺れがどんどんどんどん強くなっていったことだった。
最初はドン、という強い縦の揺れ。それから長く長く、そして徐々に強さを増す奇妙な「横」の揺れ。私は手に持っていた洗濯物を手放し、耐え切れずコンクリートの床にしゃがみ込んだ。今思えばベランダごと落下する危険があったので、無理にでも家の中に入るべきだったのかもしれない。けれどその瞬間は、避難する余地もないほど、ほんの2,3歩歩くこともできないほどの、強烈な揺れだったのだ。
1分、2分、3分。
いったいどのくらい揺れたのだろうか。ようやく揺れがおさまった…と感じた私は、おそるおそる立ち上がりながら、窓をあけ、家のなかに戻った。当時はリビング代わりに使っていた狭い狭い四畳半の部屋は本棚が倒れ、夫の趣味のグルメ漫画本や、私の趣味のアガサ・クリスティーの文庫本などが一緒くたになって、ぐちゃぐちゃで足の踏み場もないありさまだった。
片付けなきゃ。
けれどとにかくなにがあったのか知りたい。
私はそれまで大切にしていた本たちを足蹴にして、テレビがあった隣室に向かった。向かう途中でトイレと洗面所も確認した。良かった、水は流れてる…。
このとき、東京でも停電や断水が起きていたエリアはあったはずだが、幸いにも私が住んでいた下高井戸は無事だった。電気はきちんと通っていて、テレビはちゃんとパチン!といつもの音を立ててついた。チャンネルは1、NHK一択。阪神大震災やオウム真理教が起こした一連のテロ事件を経て、災害時に民放の放送はあてにならないと、それまでの経験のどこかで染み付いていたからだ。
けれどせっかく画面が映ったのに、ちゃんとチャンネル1にしたのに、「なにが起こったのか」を本当に理解することはできなかった。
東北地方で震度7の大地震?マグニチュードは…8以上!?嘘でしょう、そんな数字見たことない。東京は震度5強。どうりで揺れたわけだけど…。それ以上の情報が、わからない。西のほうに住んでる両親や親戚は無事だろうけど、福島のおじさんはどうなってるの!?…当たり前だけど電車もバスもぜんぶ止まってる。…夫は帰ってこられるんだろうか…。それ以上の情報は、まだなにもわからない。テレビだってきっとなにがなんだかわからないのだろう。ラジオを買っておかなかったこと、そして防災用品のたぐいをいっさい何も用意していなかったことを、これほど後悔したことはない。
ガラケー(この時は富士通のF-0シリーズを使っていた)はまったく通じなかった。地震による大規模通信障害が起きていたのだ(一番早く復旧したdocomoでさえ、完全に解消されるまでに2~3日はかかったと思う)私にとってもうひとつ幸運だったのは、
「携帯電話のほかに、パソコンを所持していたこと」
「近隣で電波塔に異変が生じる等の被害がなく、インターネット回線が途切れていなかったこと」
だった。大ファンだった浅田真央さんの演技をリアルタイムで見るために、パソコンの扱いに多少は慣れていたこと、そしてX(2011年当時はTwitter。その頃はアプリやらログインやらも不要で、パソコンからでも閲覧できた)や5ちゃんねる(当時は2ちゃんねる)に慣れ親しんでいたことも幸いした。
ガラケーが全く訳に立たない、と悟った私は、すぐにテレビのすぐ横のパソコンの電源を入れた。インターネットに、当時から悪評高かった2ちゃんねるに、ツイッターに、これほど感謝したことはない。画面の向こうには、私と同じように混乱し、動揺し、そして恐怖する「人々」がいた。そのことに、どれだけ慰められたかほんとうに分からない。あの時ネットがなかったら、ひとりで部屋にいて近所付き合いも無かった私は少し気が触れていたかもしれない。それまで30年くらい生きてはいたが、人生最大の恐怖はあの日あの瞬間だったと断言できる。
2ちゃんねるの掲示板には「嵐(あらし)」と呼ばれるたくさんの嘘や、見るに耐えない無惨な東北への、関東への、日本そのものへの罵詈雑言もあったが、あの日の掲示板はそれ以上の恐怖と混乱がそれをかき消していた。この時点で午後3時くらいだった。
「東北民だけど仙台空港やばい」
「津波来るかも」
そんな書き込みで溢れていたが、「当時ネットに書き込みできる状態だった人」はもうそれだけでとても幸運な環境に居たのだと思う。
夢中で情報収集をしているうちに、時間はあっという間に過ぎた。それまではわりと静かだったテレビやインターネットの空気が変わり始めたのは、15:30くらいからだったと思う。
テレビがなにか叫び始めた。
「津波が来ます!!」
津波。…津波?…大津波警報、って。10m以上の予想、って?海の無い県で育った私に、そのとき津波の恐怖はまったくわかっていなかった。だがNHKに映し出された映像は、津波の恐ろしさを、生涯忘れえぬほどに、否応なしに刻ませた。
家が、車が、電信柱が、店が、船が、畑が、電線が、車が。屋根の上に避難した人が、犬が、猫が、家畜が。
すべて流されている。
真っ黒な濁流に、ぜんぶ一緒くたになって流されている。
NHKのカメラは辛うじて、屋根のうえの点のような「人」が流されるその瞬間に映像を切り替えた。だがもう遅かった。日本中の人が悟ったはずだ。これはとんでもないことが起きている。これ以上に危険だったことなどない。これまでにあるはずもなかったことが起きている。
嘘だろう、と声が出た。だが呻いた所でどうにもならなかった。夢だったらいいのに。こんなこと、全部夢だったらいいのに。だが「悪夢」は決して覚めないままだった。状況はほんとうに絶望的だった。時間が経つにつれ、被害の全貌がすこしづつ明らかになるにつれ、凄惨な現実はより一層残酷さを増して私のもとにもやって来た。
午後4時。
「遺体が200~300人、海岸に上がっている」
「停電・断水・流出家屋多数。大津波警報、引き続き発令」
千葉ではコンビナートが炎上していた。やっと携帯が一瞬だけつながった、と思ったら、その時通っていたライター学校の知人からのコンビナート絡みのデマメールで、舌打ちしたのを覚えている。相変わらずガラケーは機能していなかったが、ほんの僅か、気まぐれのように通じる瞬間もあった。赤坂方面に出社していた夫と連絡がとれたのもこのころだ。
「職場めちゃくちゃ、すごい揺れ」
「家は無事、電車ぜんぶ止まってる。帰れる?」
「どうに帰るわ」
電波が不安定すぎてメッセージはごく短いものしかやり取り出来なかった。とりあえず身内は生きていたことに一息つく暇もなかった。今思えば恐怖のあまりアドレナリンに操られていたとしか思えないのだが、情報を、映像を見ることを止められなかった。ずっとずっと狂ったようにひたすらパソコンの前に座り、溜まったログの「更新」ボタンを押し続けていた。
いつの間にか日が暮れていた。その日の夕飯はなにを食べたのか、どうやっても思い出せない。ほんとうに幸いなことに飢えた記憶は無いからなにかを口には入れたのだろうが、そこだけ記憶がぽっかりと抜け落ちている。カーテンを閉めたかどうかも思い出せない。検索しているあいだじゅう、余震は何度も襲ってきたはずだが、それに恐怖した記憶もない。目の前の余震より、テレビ越しの映像のほうが何千倍も恐ろしかった。ただ東京の春にしては妙に寒い夜だったのは覚えている。服を着こんでもなお寒かった。
テレビはどの局もずっとL字画面のままだった。気仙沼が燃えていた。気仙沼にはその日サンドウィッチマンの2人が仕事のために滞在していたことをネットで知った。もうあの面白い漫才は二度と見られないのか、と画面いっぱいに燃え盛る炎を見ながら思った。
カウントされる死者数はどんどんどんどん増えていった。心は麻痺したままだったが、「数字」にはそのたび心臓が脈打った。死者数、流出家屋数、行方不明者数。
夜7時半頃、夫から「バスに乗った」という連絡がきた。この頃には携帯がある程度の時間まとまって動くようになっていた。電車は止まったままだったが、路線バスはどうにか動き出したものもあったらしい。ただし超満員のうえに道路は大渋滞で、ほんの数m動くのに数十分かかっている、と(今思えば歩いたほうがはるかに速かったのだろうが、夫も冷静さを失っていたのだろう)
夜8時頃。夫から「バスは諦めて降りた、歩いて帰る」との連絡があった。
私はそこでようやく被害状況を検索するのを止めて、数時間ぶりに立ち上がった。風呂。風呂を入れなきゃ。歩いて帰ってくるなら寒いし疲れ果ててるのに決まっている。風呂くらいは入れてやらなきゃ。リビングの散乱した本を、急いで片づけて浴室に向かった。
だが浴槽の湯は出なかった。出たのはただの水だった。それでもありがたいと思うべきだったのは重々承知していたが、私はここで本当に焦った。慌てて台所に駆け寄ると、ガスコンロの火もつかなかった。停電も断水もなかったけど、ガスは止まった?初めてインフラが止まる恐怖を味わった。でもお風呂。風呂を入れねば。どうしよう?
私はそのときただ一台だけ所有していたティファールの電気ケトルにお湯を沸かし、浴槽に移しはじめた。夫婦ふたりだけだったから、ケトルは500mlくらいしか水が入らない小さいものだった。もっと大きなケトルを買っておけば良かった。苛立ち、舌打ちし、焦りながら台所で湯を沸かし、浴室に移動してから500mlのお湯をバスダブに注ぐ。浴槽ってこんなに広かった?ちっともいっぱいにならない。浴槽のはしからはしまでお湯で満たすこともできない。おまけに、注ぐはしから湯気を立てて冷めてゆく。
10何杯くらい注ぎ切ったところで、無理だ、とやっと悟った。
私は再びパソコン前に戻った。2ちゃんねるの「地域板」が今度も役立った。私と同じようなエリアに住んでいて、お湯の出ない人がいた。その人に誰かが答えていた。
「マイコンメーターが止まってるんじゃね?」
マイコンメーター。それまで意識したことのない単語だった。うっすらとした記憶をたどり、隣室の押入れの奥から引っ越し時に貰った冊子を取り出した。あった。「緊急時のマイコンメーターの復旧の仕方」それによると、このマンションは復帰ボタンとやらを「その階の人たちが全員」押さねばならぬ、とのことだった。
5階は3部屋あり、うちは真ん中の部屋だった。台所の小窓から明かりが漏れていたから私は全くためらわず、まず501号室の住人のインターフォンを押した。住人の在宅の有無が一目瞭然の建物だったことが幸いした。
「はい」
隣人の男性は無事だった。やはり寒かったのか確か半纏のようなものを引っかけていたことを覚えている。私はマイコンメーターのことを冊子つきで説明した。隣人はすぐに理解してくれ、赤いボタンを押してくれた。
「無事に帰れたんですね」
「職場が近所だったので…」
そんな会話を、数時間ぶりに生身の人間と交わした。お湯が出なくて不便がっていたのはその人も同様だったらしい。
次にふたりでここも明かりがついていた503の住人の部屋に行った。それまで全く付き合いがなくてわからなかったが、住人は女性だったらしく、警戒しているのかなかなかドアを開けてくれなかった(今にして思えば、当たり前の話だが)。
女性とはドアチェーン越しに話をした。最初はなんのことかわからなかったらしく、2回、3回と繰り返してやっと話が通じた。女性も復帰ボタンを押してくれた。
部屋に戻るとガスがついた。待望のお湯もやっと出た。とりあえずなにが起こるのか、いつここも断水やら停電やらするのかもわからなかったので、大鍋いっぱいのお湯を沸かしながら風呂を溜めた。
超特急で風呂に入り、超特急で着替えて髪を乾かした。夫がいつ戻ってくるか分からなかったし、いつなにがどう起こるのか、もはや本当に誰にもわからなかったからだ。着替えてもパジャマは着なかった。いつでも飛び出せるように重ね着をした。
それからどのくらい経っただろう。真夜中過ぎに想像通りグッタリした夫が帰って来た。
ただいま、もお帰り、も無かったと思う。会話すらもあまりなく、ただふたりでずっとニュースを見ていた。寝るときは普段着のまま、ベッドのそばの床には靴を置いて寝た。テレビのチャンネルを切るのがひどく怖かったが、もうあまりにも疲れ果てていた。
翌朝、「オマエの携帯の緊急地震速報の音がうるさくて眠れなかった」という夫の文句を聞きながら、こんなときに相変わらず小さい男だな、と思ったことを覚えている。こんなときなのに、と。朝一番でもちろんNHKのチャンネルをオンにした。
明るくなると被害はさらに凄惨さを増していた。街はまるごとすべて飲み込まれて、ほんとうに草木の一本すら残らない地域があった。あれは気仙沼だったか仙台だったか、アナウンサーが「~は全滅しました」という言葉にひどくショックを受けたことを覚えている。
生まれてから一度も、ゲーム以外の世界では聞いたことも使ったこともない言葉だった。
だが確かに、その人は言ったのだ。全滅しました、と。
その日の午後15時36分、東京電力福島第一原発原子力発電所の1号機が爆発する映像が世界中に流れ、絶望には底が無いことを思い知った。東京電力の管轄内に住んでいたくせに福島に原発が何基あるのかもろくに知らず、ただ電気を垂れ流してお気楽に暮らしていた罰が当たったのだと思った。
そこから先の世界は、皆さんもご存じの通りである。
2011年の3月11日午後2時46分18秒から世界は一変してしまい、二度と元には戻らない。もしも、すら存在しない。建物はもとに戻っても、あのとき生まれていたはずの命、これから生まれていたはずの命、いまもまだ生きていたはずの命が存在する世界線にはどうやったって戻れない。
PTA会長になってから一番驚いたことは、「会長は地震等の災害時に、学校・地域と連携し、学校に避難所を開設・運営しなければならない」ということだ。
私みたいなド素人が、避難所を運営?それもまたあんな大災害が起きたときに、落ち着いて避難所を開設するなんてできるわけ?あの時、ティファールでお湯を沸かすしかできなかったくせに。
だが残されたものの責務として、出来ようが出来まいがやるしかないのだ。震災後の避難所を運営した人たちは、ほんのわずかな準備期間すら与えられなかったのだから。
今日はあの日には存在しなかった我が子の送迎があるから、2時46分に祈りを捧げることはできないかもしれない。代わりに「避難所開設マニュアル」を読み直す日としよう。
それが「あの日、東京に居てただ映像を見ることしかできなかった」私にできるただひとつの、15年前のきょう失われた無数の人生への「贖罪」だと思うからだ。
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